大阪地方裁判所 平成元年(ワ)4056号 判決 1996年2月28日
原告
加藤貞夫
同
加藤澄江
右両名訴訟代理人弁護士
氏家都子
右両名訴訟復代理人弁護士
三好邦幸
被告
国
右代表者法務大臣
長尾立子
右訴訟代理人弁護士
稲垣喬
右指定代理人
巖文隆
外五名
主文
一 被告は、原告加藤貞夫に対し、一六七三万六〇四五円及びこれに対する平成元年五月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告は、原告加藤澄江に対し、一六七三万六〇四五円及びこれに対する平成元年五月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 原告らのその余の請求を棄却する。
四 訴訟費用は、これを五分し、その三を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告ら各自に対し、各金二八六二万円及びこれに対する平成元年五月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。
第二 事案の概要
本件は、国立大学医学部付属病院産科婦人科の医師が、特発性血小板減少性紫斑病(以下「ITP」と略称する。)に罹患している母親の分娩に備え、胎児の血液を調べるために侵襲的検査である臍帯穿刺法による胎児採血を実施したところ、まもなく胎児の様子が急変し、緊急帝王切開で娩出した胎児・新生児は仮死状態で、出生五日後に死亡するに至ったという事故について、その両親である原告らが、そもそも臍帯穿刺は不必要な検査であったのに、原告らにその危険性も十分説明しないままこれを実施し、しかも術後の監視も不十分であったために、新生児が死亡するに至ったとして担当医師に過失があったことを主張し、国に対し、国家賠償法一条もしくは診療契約上の債務不履行に基づき損害賠償を請求した事案である。
第三 争いのない事実及び証拠により容易に認められる事実
一 当事者等
加藤宏幸(以下「宏幸」または「患児」という。)は、昭和六三年一一月一八日、大阪大学医学部付属病院産科婦人科で出生し、同月二三日死亡した者である。原告加藤澄江(以下「原告澄江」という。)は宏幸の母、原告加藤貞夫(以下「原告貞夫」という。)は宏幸の父である。
被告は、大阪大学医学部付属病院(以下「被告の病院」という。)の設置管理者であり、高木哲(以下「高木医師」という。)は、被告の病院の産科婦人科に勤務する国家公務員たる医師である。
二 事実経過
1 原告澄江は、昭和六三年四月一六日、第二子(宏幸)の妊娠が判明し、同月一八日、多量の性器出血があったため、豊中市民病院に切迫流産管理目的で入院したが、入院中の検査で、血小板減少(血小板四万二千)が判明し、ITPの罹患が疑われたので、同病院の紹介により、同年五月二日から、切迫流産及びITP合併妊娠管理目的のため、被告の病院で診察を受けることになった。
ITPとは、原因は不明であるが、自己の血小板に対する抗体が体内に産生され、抗体が付着した血小板は、脾臓などの網内系で破壊されるため血小板が減少する疾患である。血小板は、出血した場合の止血作用に関与する働きをもっており、正常血小板数一立方ミリメートルあたり二〇ないし三〇万であるのに対し、同五万未満では出血傾向が出現する可能性があり、同三万未満になるとその危険性はより増大する。ITPは、妊娠を契機として発症することがあり、妊娠に合併するITPは、専門医の管理を必要とする。
2 以後、原告澄江は、被告の病院の第二内科でITPの管理を、産科婦人科で妊娠の管理を通院外来で受けることになり、産科婦人科の高木医師は、妊娠二〇週と一日の、七月二七日から、原告澄江を担当するようになった(乙一、三、証人高木)。
母体である原告澄江の血小板数は、六月一日の検査では一立方ミリメートルあたり2.9万、七月一九日の検査では同3.5万、八月二四日の検査では同2.7万、九月二一日の検査では同2.8万と減少したままであったが、妊娠経過には問題がなく、妊娠三〇週と一日にあたる昭和六三年一〇月五日の検査では患児の推定体重は一七一三グラムと順調に発育していることが確認された(乙三)。
3 同年一一月一四日、原告澄江は、腹部緊満感が出現し、切迫早産の疑いがあったことから、切迫早産管理目的で被告の病院に緊急入院した。高木医師は切迫早産の治療薬であるウテメリンを原告澄江に点滴静注し、超音波断層装置で患児の状態を確認したところ、患児は推定体重が2712.3グラムとなるなど正常の範囲内で順調に生育し、大奇形はなく、胎盤付着部位にも異常がないことを確認した。
高木医師は、原告澄江の分娩方法について、同人の前回の分娩方法が帝王切開であったことから、今回も帝王切開によることとしており、出産予定日を同年一二月一日としていた(乙一、三、証人高木)。そして、今後の妊娠管理の予定として、①陣痛抑制が良好にコントロールされた場合には、翌週から大量免疫グロブリン療法を行なう。②陣痛抑制がうまくいかなかった場合、早急に大量免疫グロブリン療法を行ったうえ、翌週帝王切開を行なう。③分娩の停止ができなかった場合には、緊急帝王切開を行なうこととした。そして、緊急帝王切開になった場合に備えて、血小板輸血ができるように、三人の血液提供者を確保したうえ、第二内科に血小板分離を緊急に依頼できる態勢を整えた(乙三)。
4 同月一六日、高木医師は、患児の血液の状況を知るために、翌一七日に臍帯穿刺による胎児採血を実施することにして、伊藤医師を通じて、その旨を原告らに伝えたが、同月一六日深夜から一七日早朝にかけて、原告澄江の腹緊感が増強したために、臍帯穿刺の実施は一日延期されることになった。
臍帯穿刺とは、超音波断層装置で確認しながら先端が超音波を反射するように加工してある二三Gの穿刺針を使用して直接臍帯静脈から血液を採取する胎児採血の方法である。
5 高木医師は、同月一八日午前一一時三〇分から午後〇時五〇分までの間に、徳川、伊藤の各医師の補助を受けて、原告澄江のベッド上で、臍帯穿刺を実施した。高木医師は、臍帯穿刺に際し、胎動が激しく採血が困難であったため、セルシン一〇ミリグラムを静注して胎動を抑制したうえ、胎盤中央部にみられた胎盤表面の胎児血管を穿刺して胎児血四ミリリットルを採取した(以下「本件穿刺」という。)。
採血後、高木医師は、超音波断層装置で穿刺部位を検索し、採血部からの出血がなく、胎児心拍にも特に異常がないことを確認して臍帯穿刺を終了した。
6 右同日午後一時五〇分、高木医師は、巡回の助産婦から患児に徐脈傾向があるという報告を受けた。
午後二時、分娩監視装置を装着したところ、患児の心拍数が基準心拍数一一〇に対し七〇と下降していた。直ちに、酸素五リットルの吸入を開始し、体位を変換したが、患児の状態は改善せず、超音波ガイドによる監視の結果、患児の心拍数は明らかに減少していた。
午後二時一二分、高木医師は、緊急帝王切開を実施することを決定し、同一七分手術室に入り、同二七分手術を開始、同三〇分患児が娩出、同三三分胎盤が娩出したあと、同五四分手術は終了した。
娩出した患児は、白色仮死の状態にあり、出生時の新生児の元気さを示す指数であるアプガー指数は、一分後〇点、五分後〇点であった。
高木医師らは、直ちに蘇生を開始したが、患児は、重症貧血、低循環血液量、血液の酸性症(アシドーシス)で、低循環血液性ショックの状態にあった。また、羊水は明らかに血性であった。
7 患児は、その後、腎不全による無尿状態、頭蓋内出血、脳浮腫を伴い、出産の五日後である同年一一月二三日午前六時一〇分、死亡した。
第四 争点
一 本件穿刺は患児死亡の原因であるか。
(原告らの主張)
本件では、仮に常位胎盤早期剥離があったとしても、それは軽度のものであって、患児死亡に至るようなものではない。
また、一般的に、臍帯卵膜付着がある場合には、胎児が血流不全を起こす可能性は否定できないが、本件では、入院中の経過からして、臍帯穿刺以前に、胎児心音に異常所見はなく、臍帯穿刺後帝王切開までに、記録上、強い子宮収縮があったことは確認されていないから、仮に臍帯卵膜付着があったとしても、それが胎児に悪影響を及ぼしたとは考えがたい。
したがって、本件では、本件穿刺による穿刺部位からの出血以外に患児死亡の原因として考えられるものはなく、本件穿刺が患児死亡の直接の原因となったことは確実であるから、本件穿刺が患児死亡の原因であるというべきである。
(被告の主張)
本件穿刺により、胎児仮死となる可能性としては、臍帯血管を穿刺した刺激による反射性の徐脈、穿刺部位の血腫形成による血流障害、穿刺部位からの出血が考えられるが、徐脈の有無については、胎児血採取後、超音波断層装置で胎児心拍数を確認し、徐脈がなかったことが確認されており、穿刺部位の血腫形成による血流障害の有無については、分娩後、胎盤の肉眼的、病理学的な検索により否定されており、穿刺部位からの出血については、採血後、超音波断層装置で穿刺部位から羊水腔内への出血がないことが確認されているから、結局、本件穿刺により、胎児仮死に陥ったと考えることは極めて困難である。
むしろ、本件では、手術所見として、新生児仮死、血性羊水とともに胎盤がすでに剥離していたことなどからして胎盤早期剥離であった可能性が極めて高く、また、胎盤の状況からして臍帯卵膜付着であった可能性がある。これらの場合においては、血性羊水、新生児の貧血は必発であり、いずれか、もしくは双方が原因となって、胎児仮死、新生児仮死に至ったとみるのが相当である。
したがって、本件穿刺は患児死亡の原因ではないというべきである。
二 仮に右一が肯定されるとして、高木医師には、本件穿刺を行うにつき、患児の治療・検査に不必要なのにこれを実施したという過失があるか。
(原告らの主張)
母親がITPの場合に、臍帯穿刺を実施することがあるのは、母親がITPの場合には、胎児もまたITPに罹患している可能性があり、血小板の減少によって止血効果が著しく低下し、経膣分娩によると、産道での圧迫により胎児が頭蓋内出血をおこす危険性があるので、分娩方法を帝王切開にするかどうか決定するため、出産前に胎児の血液の状態を知る必要があるからである。このように、出産前に臍帯穿刺を実施する唯一の理由は分娩方法を決定することにある。
本件では、被告の病院の方針として、前回の出産が帝王切開の場合には次回の出産も帝王切開とすることになっており、原告澄江は前回の出産が帝王切開であったため今回の出産も帝王切開とすることを高木医師は本件穿刺を実施する以前に既定方針として決定していたのであるから、高木医師の行なった本件穿刺はまつたく必要のない検査であり、単に穿刺針による侵襲を胎児に行なったにすぎないというべきであり、この点において、同医師には過失がある。
(被告の主張)
臍帯穿刺は、分娩方法を決定するためだけに必要というものではない。母親がITPの場合、胎児もITPに罹患している可能性があり、胎児がITPの場合には帝王切開による場合でも頭蓋内出血などの不慮の事態が発生する可能性があるので、胎児血小板輸血を含めた治療が要求される。したがって、たとえ分娩方式が帝王切開と決まっている場合でも、胎児の血液の状態を出産前に知っておくことは必要なことであり、胎児の血液の状態を知るためには、直接胎児血を採取するしか方法がないのであるから、本件穿刺は必要な検査であったというべきである。
三 高木医師は、本件穿刺実施にあたり、原告らに説明義務を尽くしたといえるか。
(原告らの主張)
本件穿刺は必要のない検査であるから、その実施に際しては、患者及びその家族に対し、特に危険率、症例数等、検査の危険性を十分説明して、承諾を得る必要がある。
しかるに高木医師は、原告らに対し、単に臍帯穿刺を実施すると告げたのみで、その危険性、予測される合併症、その他可能性がある必要措置などについてまったく説明をせず、原告澄江からは承諾書の署名もとらないまま、本件穿刺を実施した。
したがって、高木医師は、本件穿刺実施にあたり、原告らに対し、説明義務を尽くさなかった過失がある。
(被告の主張)
高木医師は、本件穿刺実施の二日前である昭和六三年一一月一六日、原告澄江の病室で原告貞夫が同席した場において、原告らに対し、臍帯穿刺による胎児血採取の必要性、危険性等について、説明を行い、承諾を得、胎児採血を明記した承諾書にその場で原告貞夫の署名を得た。原告澄江の署名はないが、原告らが同席しての説明であったのでその署名があったのと同視すべきである。また、原告澄江に対しては、外来受診時、ITP合併妊娠時の母体、胎児への特殊検査や治療方針等について再三説明し、同意を得ていた。
高木医師は、危険性について、臍帯穿刺には特有の必然性の高い後遺症合併症が存在するというような危険性はなく、万一のことがおこる可能性もあるがその程度は低く、被告の病院の実施例で発生したことはない旨の説明をしている。
したがって、高木医師の説明義務の履践は適切なものであり、高木医師に説明義務違反の過失はないというべきである。
四 本件穿刺実施前後の胎児の監視態勢、救命態勢に過失はなかったか。本件穿刺実施後、分娩監視装置をつけていれば、患児を救命することは可能であったか。
(原告らの主張)
臍帯穿刺は、①臍帯血腫、血栓、出血、②胎児徐脈、③胎児死亡などの重大な合併症がおこる可能性があり、それらの合併症の予防、早期発見、早期治療のためには、分娩監視装置による子宮収縮と胎児心拍数の連続監視を少なくとも一時間は行うことが必要である。また、そもそも臍帯穿刺は、その危険性から、手術室で帝王切開の準備をして、いつでも帝王切開ができるように準備をしたうえで、すなわちダブルセットアップ下に実施すべきであり、胎児心拍数などに異常を認めればすぐ帝王切開で胎児を娩出できるようにすべきであった。このことは国立大学付属病院である被告の病院にとっては物的・人的に充分に可能なことである。
しかるに、高木医師は、二人部屋の原告澄江の病室で本件穿刺を行ったうえ、本件穿刺実施後、たまたま回診した看護婦が患児の心音の異常を発見するまで、一時間にわたり分娩監視装置を設置する義務を怠った。
もし、手術室で本件穿刺を行い、患児の心音等を常時監視することが可能な分娩監視装置を設置していれば、患児の徐脈が発生する前に、出血性ショックによる頻脈が観察されたはずであり、またより早期に患児を帝王切開により娩出することが可能であったはずであるから、患児を救命できた可能性は十分にあったというべきである。
(被告の主張)
臍帯穿刺を実施した場合、実施後に注意すべきことは、穿刺部位からの出血、穿刺時の徐脈、感染である。
高木医師は、本件穿刺後、超音波断層装置で穿刺部位からの出血及び胎児心拍に異常がないことを確認し、検査終了一時間後に胎児心拍の再確認をしているから、これをもって高木医師が監視義務を怠ったということはできない。
仮に原告らの主張するように穿刺部位からの出血があったとしても、穿刺後に本件のような再出血に至ることは、高木医師にとってまったく予見できないことであるから、そのような事態に対処する義務を認めることはできず、通常の監視方法として検査後一時間程度の時間帯からその後の患児の状況を監視したことで、その義務は尽くされていると考えるべきである。
また、仮に本件穿刺直後から分娩監視装置で監視したとしても、本件のように患児が短期間に大量に出血したような場合には、患児の救命は困難である。
いずれにせよ、高木医師が分娩監視装置の設置をしなかったからといって、そのことから高木医師に監視義務違反があると考えることは失当である。
五 責任及び損害
(原告らの主張)
高木医師の前記各不法行為により、患児は死亡し、次の各損害が発生したので、被告国にはこれを賠償する責任がある。
1 死亡に伴う逸失利益
二六二四万円
2 死亡慰謝料 二五〇〇万円
3 葬儀費用 一〇〇万円
4 弁護士費用 五〇〇万円
5 合計 五七二四万円
うち原告澄江相続分
二八六二万円
うち原告貞夫相続分
二八六二万円
第五 争点に対する判断
一 争点一について
(本件穿刺が患児の死亡原因であるか。)
1 証拠(乙三、四、検乙一、二、証人中林、証人高木、鑑定の結果)によれば、次の事実が認められる。
(一) 高木医師は、臍帯静脈ではなく、胎盤胎児面血管を穿刺して胎児血を採取した(証人高木)。胎盤胎児面には、ピンホールからの出血斑一カ所が認められる(乙三、検乙一)。
(二) 胎盤胎児面血管は、ワルトンゼリーに包まれておらず、直接羊水にさらされているため、ワルトンゼリーに包まれている臍帯静脈を穿刺した場合に比べ、止血しにくく、一旦止血したとしても再出血する可能性がある。
(三) 胎児採血による血液検査では、ヘモグロビン値が一デシリットルあたり13.8グラムと正常範囲(同一四ないし二〇グラム)の下限であったものが、その約二時間後の患児娩出直後に採取した臍帯動脈血ではヘモグロビン値は約半分の同7.2グラムとなっていた(乙三)。
ヘモグロビン値が約二分の一になったということは、患児の血液が約二分の一に減少したということである。
(四) 羊水が明らかな血性であった(乙三、四)。
以上の事実が認められる。
右で認定した事実によれば、胎盤胎児面の穿刺部位すなわち穿刺針を抜去した後の穴から出血したことが原因となって、全体の二分の一の出血を来たし、急性貧血、循環血液量の減少による出血性のショック状態になったとみるのが相当である。
この点、本件では、穿刺直後に、超音波断層装置で、穿刺部位からの出血がないことが確認されているが(乙三、証人高木)、一度止血した穿刺部位からフィブリン溶解現象で再出血のおこる可能性は否定できない(証人中林、鑑定の結果)。
したがって、本件穿刺が実施されなかったなら、穿刺部位からの出血という事態は発生しなかったといえるから、本件穿刺は、胎児仮死、ひいては患児死亡の原因であるというべきである。
2 これに対し、被告は、本件では、常位胎盤早期剥離及び臍帯卵膜付着があり、これが患児死亡の直接の原因であるとして、本件穿刺が患児死亡の原因ではないと主張する。
(一) そこでまず、常位胎盤早期剥離が患児死亡の原因か否かについて検討する。
常位胎盤早期剥離の場合には、胎盤血流の遮断により、胎児仮死、時には子宮内胎児死亡に至ることがある(乙二一)。
しかし常位胎盤早期剥離の場合は、胎盤母体面に凝血の付着や血腫が認められるのが常であるところ(証人中林、鑑定の結果)、本件では、胎盤母体面に肉眼的に血腫を認めることはできず(検乙二)、また病理学的診断によっても血腫が認められたという報告はなされていないから(乙三)、原告澄江に常位胎盤早期剥離があった可能性は少ないというべきである。
もっとも、帝王切開時に胎盤の剥離が極めて容易であったとされており(証人高木)、また血性羊水であったこと(乙三)、急激に発症した胎児仮死があったことなどからすれば、常位胎盤早期剥離があった可能性を完全に否定することはできない。しかし、前述のとおり、本件では胎盤母体面に肉眼的に血腫を認めることはできず、また病理学的診断によっても血腫が認められたという報告はなされていないことからすれば、仮に常位胎盤早期剥離があったとしても、それは軽症のものであったと推測される(証人中林、鑑定の結果)。
したがって、常位胎盤早期剥離が、患児死亡の原因となることはないというべきである。
(二) 次に、臍帯卵膜付着が患児死亡の原因であるか否かにつき検討する。
臍帯卵膜付着がある場合、本来は臍帯のワルトンゼリーに保護されている臍帯の血管が、血管だけ臍帯から出てワルトンゼリーからはずれ露出した状態で卵膜上を走行しているため、臍帯血管は子宮収縮によって圧迫を受けやすくなり、そのため胎盤から胎児への血流が減少して、胎児低酸素症(胎児仮死)や、さらに進行すれば胎児死亡、新生児死亡となることがある(甲一三、一九、二〇、乙一四の一・二、証人中林)。
そして、本件の娩出胎盤の病理所見によれば、臍帯卵膜付着があったとされている(乙三、検乙一、二)。
しかし、争いのない事実によれば、原告澄江は、昭和六三年一一月一四日に切迫流産の疑いで被告の病院に入院し、同月一七日には子宮収縮が増強しているので、同月一八日、本件穿刺を実施したことによって同人に強い子宮収縮が誘発されたのであれば、同人自身か、医師または看護婦がこれを認識する可能性が高いはずであるが、そのような事実を認めるに足りる証拠はなく、また本件穿刺終了後、午後二時より装着した分娩監視装置の記録紙からも明らかな子宮収縮は認められない(乙三)。したがって、本件穿刺終了後、原告澄江に強い子宮収縮があったとは考えられない。
また、原告澄江が被告の病院に入院した同月一四日から、本件穿刺実施の前日である同月一七日までの胎児の状態は良好で、胎児心拍数の明らかな低下もなかったこと(乙三)、同月一七日、原告澄江が腹部緊張感の増強を訴え、子宮収縮が四〇分に七回と増加しているときにおいても、胎児心拍数の明らかな低下は認められていないこと(乙三)からすれば、本件では、仮に、かなりの子宮収縮があったとしても、それのみでは胎児心拍数の低下や胎児仮死、患児死亡となる可能性は少ないとみるのが相当である。
さらに、もし、臍帯卵膜付着により、子宮口近くにあった臍帯血管が何らかの刺激で破れて大量の出血をしたとするのであれば、母体には性器出血がなければならず、また臍帯血管には断裂した跡がなければならないが、本件ではいずれの事実もこれを認めるに足りる証拠はない。
したがって、臍帯卵膜付着のみで、新生児死亡を説明することはできないというべきである(証人中林、鑑定の結果)。
(三) 以上によれば、常位胎盤早期剥離及び臍帯卵膜付着のいずれについてもそれだけで患児死亡の結果が発生したとみることはできず、本件穿刺がなければ胎児仮死、ひいては患児死亡の結果が発生することはなかったというべきであるから、本件穿刺を実施したことが患児死亡の直接の原因となったとみるのが相当である。
二 争点二について
(高木医師には、本件穿刺を行うにつき、患児の治療・検査が不必要なのにこれを実施したという過失があるか。)
1 証拠(甲八、一七、二三、乙八の一・二、乙九ないし一二、乙一六の一・二、乙一七の一・二、乙二四ないし二七、証人中林正雄、鑑定の結果)に前記争いのない事実及び証拠により容易に認められる事実(以下「争いのない事実」という。)並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 産婦がITPに罹患している場合、胎児の血小板数が減少し、胎児・新生児に出血傾向が出現する可能性があり、その場合、経膣分娩をすると、陣痛という強い子宮収縮により児頭が産道を通過する過程において、胎児・新生児に頭蓋内出血を起こす可能性がある。そこで、これを予防するため、一般には胎児血小板数が一立方ミリメートルあたり五万未満の場合には分娩方法として帝王切開を選択することとされており、産婦がITPに罹患していると疑われる場合には、分娩方法を決定するために、胎児血小板数を知る必要があるとされている。
(二) 胎児血小板数を知るためには、直接胎児の血液を採取する必要があるが、胎児採血の方法には、児頭採血と臍帯穿刺があり、児頭採血は、分娩開始後、子宮口が三ないし四センチ開大した後に人工破膜し、胎児の頭皮にメスで切開を加え、毛細血管の胎児血を採取する方法であるから、既に陣痛が発来し、児頭がある程度産道内に下降しないと手技が困難であること、この時点ですでに産道からの圧迫により頭蓋内出血を起こしている可能性があること、検査終了から結果を得るまでに分娩が進行し、帝王切開術が必要な場合でも術が間に合わないことなどの欠点があり、これらの欠点を改良するものとして超音波断層装置の発達とともに開発された臍帯穿刺の方が、胎児採血の方法としてすぐれている面がある。
(三) しかし、臍帯穿刺は、直接胎児への侵襲を伴う検査方法であるから、穿刺部位の血腫形成による血流障害、穿刺部位からの出血などがあると、胎児死亡をもたらす危険性があり、胎児死亡の危険性は0.25ないし1.6パーセントであるといわれている(甲八、乙一九の一・二、乙二四、証人中林、鑑定の結果)。それゆえ、臍帯穿刺は遺伝子疾患の出生前診断など侵襲に見合った価値の情報を必要とする適応に対してのみ行われる検査方法である(甲七)。
(四) 母親がITPに罹患している疑いがある場合も右適応の一場合であるとされているが、それはこの場合には分娩方法を決定するために胎児の血液の状態を知る必要があるからであり、別の理由によって分娩方法を帝王切開とすることが予め決まっている場合には、あえて臍帯穿刺をすることはないというのが一般的である(証人中林、鑑定の結果)。
(五) 原告澄江は、前回の分娩方法が帝王切開であったことから、今回の分娩方法もまた帝王切開とすることが予め決められており、昭和六三年一一月一四日には、高木医師の求めに応じて、帝王切開を実施することの承諾書を被告の病院の病院長宛に提出した(乙三)。
以上の事実が認められる。
右で認定したところによれば、本件では、既に原告澄江の分娩方法が帝王切開と決まっていたのであるから、原告澄江がITPであっても臍帯穿刺による侵襲に見合った価値の情報を必要とする適応にはあたらないというべきであり、本件穿刺が本件において必要な検査であったということはできない。
2 これに対し、被告は、たとえ分娩方法が決まっていたとしても、胎児の血小板数が著しく低い場合には、胎児血小板輸血の可能性もふまえて、胎児の血液の状態を分娩前に知っておくことは必要であるとして、臍帯穿刺は必要な検査であったと主張し、証人高木哲の証言には右主張に沿う部分が存在する。
そこで検討するに、前記争いのない事実及び証拠(甲六、二三、乙三、二三、一八の二、証人中林、鑑定の結果)によれば、次の事実が認められる。
(一) 産科合併症として問題になるITPは、血小板に対する自己抗体が発現し、血小板を壊してしまうことによって血小板が減少してしまう病気であるから、抗体を抑制する治療を行って血小板を上昇させるのが一般的である。血小板輸血は、新たな血小板の投与により抗体をよりたくさんつくらせてしまうことになるため、出血による危険を回避する場合に、緊急に一時的に行うことがあるにすぎない。
(二) 胎児に対する血小板輸血は、胎児の血小板数が著しく少なく、そのままにしておくと胎内で出血する可能性があり、治療としては母体から出して行うべきであるにもかかわらず、胎児が若く、母体から出してしまうと育たない場合に、はじめてその必要性が検討される治療法である。
(三) 昭和六三年当時、胎児に対する血小板輸血は、文献的にそのような方法が今後考えられるとされていたにすぎず(乙一三の一、二、乙一八の二など)、日本で実際に胎児に対して血小板輸血を行った事例についての報告はない。これに対し、胎児輸血は、Rh不適合で重症の貧血になった胎児に対して行われることがある。(乙二三、証人中林)
(四) 原告澄江が、切迫早産管理目的で被告の病院に緊急入院した昭和六三年一二月一四日の段階で、胎児の推定体重は2712.3グラムであり、緊急帝王切開も検討されていた。そして、同月一八日、本件穿刺実施後に緊急帝王切開により娩出した患児の体重は二五四四グラムであった。
以上の事実が認められる。
右で認定した事実によれば、本件穿刺を実施した時点で、既に胎児は体外に出して充分に育つことのできる大きさになっており、仮に胎児の血小板数が著しく低い場合であったとしても、帝王切開により娩出してから治療にあたるのが相当な事例であったということができる。また、昭和六三年当時、胎児血小板輸血が胎児の血小板減少に対する現実的な治療法であったということもできない。
したがって、本件で、胎児血小板輸血の可能性を、本件穿刺を必要とする根拠とすることには無理があるというべきであり、この点に関する被告の主張は採用できない。
3 なお、本件のようにITPに罹患した妊婦が帝王切開により分娩をする場合、胎児の血小板数が著しく減少している可能性を考えて、帝王切開を極めて慎重に行うことにより胎児の頭蓋内出血等の発現を阻止できるのであるから、本件穿刺により胎児の血液の状態を把握することが帝王切開を極めて慎重に行うために必要であるとすることは相当ではないというべきである。
4 また、証拠(甲八、甲一六、乙一九の一・二、証人中林、鑑定の結果)によれば、高木医師による本件穿刺の実施以前、外国及び我が国の文献において既に、前記1(三)で認定のとおり、臍帯穿刺を原因とする血腫形成、穿刺部位からの出血などにより胎児死亡の危険性がある旨の指摘及び症例の報告がなされていることが認められ、右事実に、前記一で認定説示のとおり、本件穿刺が、ワルトンゼリーに包まれていない胎盤胎児面血管部位に対するもので、臍帯穿刺よりも更に穿刺部位からの出血の可能性の高い施術で、又母親である原告澄江には、出現頻度の低い臍帯卵膜付着がみられたものの、それが患児の死亡原因とは認められないことを併せ考慮すると、高木医師は、本件穿刺の実施時点において、右穿刺による患児の出血、それによる胎児仮死、更には患児死亡の結果発生の危険について予見し得たものと解するのが相当である。
5 以上、1ないし4及び前記一で認定説示したところに基づき、高木医師に本件穿刺の実施につき過失があったか否かにつきみることとする。
臍帯血管穿刺、胎盤胎児面血管穿刺による検査・治療は、高度の熟練を要し、かつ胎児への侵襲による死亡、障害等の危険を伴うものであるから、右危険性を知り得る立場にある大学病院の医師としては、右侵襲に見合った価値の情報・治療を必要とする場合すなわち比較的重篤な疾患の検査・治療のために必要な場合に限って右施術を行い、それ以外の場合にはこれを行わないことによって胎児への右危険性を可及的に回避すべき注意義務を負っているというべきところ、これを本件につきみると、母親である原告澄江は既に帝王切開による出産を経験しているところから、被告の病院では今回も帝王切開による出産を予定していたのであるから、同原告がITPに罹患していたとはいえ、経膣分娩によるか帝王切開によるかの選択のために穿刺による胎児血液検査を行う必要性がなかったことは前記認定説示により明らかであり、それにも拘わらず高木医師は、本件穿刺を行ったのであるから、この点において同医師には過失があったといわざるを得ない。
三 争点三について
(高木医師は、本件穿刺実施にあたり、原告らに説明義務を尽くしたといえるか。)
1 前記認定説示のとおり、臍帯穿刺は、既に分娩方法が別の理由によって帝王切開と決まっていた本件においては、必要な検査であったとはいえない。このような場合、仮にその検査自体は大学病院が行う検査方法として医学的に有用なものであったとしても(証人中林)、その検査を実施するに際しては、検査を実施する医師は、患者及びその家族に対して、検査の目的とともに、特に検査に伴う危険性について、危険率、症例、予測される合併症などを挙げて十分に説明し承諾を得なければならない。
2 これを本件についてみると、証拠(乙三、証人高木)によれば、高木医師は、本件穿刺を実施するに際し、原告らに対し、母親の血小板数がかなり減っており、胎児の血小板数も減っている可能性があるので診断する予定であること、その方法については超音波で胎児の臍帯を見ながら細い管を入れて採血をする旨説明したにとどまり、それ以上に当時判明していた、臍帯穿刺を含む胎児採血に伴う死亡、障害惹起の危険率、症例等の説明をしておらず、本件穿刺の承諾書には原告貞夫の署名しかなく、原告澄江の署名がなされていないことが認められる。
右で認定したところによれば、高木医師は、本件穿刺実施に際し、原告らに対し説明義務を尽くしていないといわざるを得ない。
四 争点四について
(本件穿刺実施前後の胎児の監視態勢、救命態勢に過失はなかったか。本件穿刺実施後、分娩監視装置をつけていれば、患児を救命することは可能であったか。)
1 次の事実は当事者間に争いがない。
高木医師は、本件穿刺の直後、超音波断層装置で穿刺部位からの出血及び胎児心拍に異常がないことを確認したが、分娩監視装置は装着せず、検査終了約一時間後に胎児に徐脈傾向があるとの報告を受け、午後二時より分娩監視装置を装着して胎児心拍の再確認をした。
2 証拠(甲一七、証人中林、鑑定の結果)によれば、次の事実が認められる。
臍帯穿刺を実施すると、羊膜絨毛膜炎(子宮内感染)、前期破水、臍帯血腫・血栓・出血、胎児徐脈、胎児母体間輸血、胎児死亡などの合併症がおこる可能性がある。これらの合併症の予防、早期発見、早期治療のためには、無菌的手術操作、感染防止、母体の全身状態の観察と同時に、特に早期の発見が求められるのであるから分娩監視装置による子宮収縮と胎児心拍数の連続監視を少なくとも一時間は行うことが必要である。
3 右で認定した事実によれば、高木医師が本件穿刺による胎児採血が終了した後、分娩監視装置を装着しなかったことは、担当医師として本件穿刺実施後に当然尽くすべき監視義務を怠った過失があるといわざるを得ない。
4 これに対し、被告は、穿刺後、本件のような再出血が起きることは高木医師にはまったく予見できなかったことであるとし、また仮に本件穿刺実施直後に分娩監視装置を装着したとしても、本件のように短期間に大量の出血があった場合には、患児の救命の可能性はなかったとして、高木医師が本件穿刺直後から分娩監視装置を装着して連続監視をしなかったことは監視義務違反とはならないと主張する。
しかし、前記認定のとおり、胎盤胎児面血管の穿刺を実施した場合、穿刺部位からの出血の危険性があることは右施術をした医師としては当然に予見すべきことであり、穿刺直後に止血が確認されたからといって、再出血の可能性について監視を怠ってよいということにはならない。
また、仮に本件では、臍帯穿刺直後から分娩監視装置を装着して胎児心拍数を連続監視しても、患児を救命できた可能性が高いとはいえないとしても(証人中林、鑑定の結果)、臍帯穿刺直後から分娩監視装置を装着して子宮収縮と胎児心拍数を連続監視していれば、本件より三〇分ほど前には胎児の異常を発見できた可能性は高いのであるから(証人中林、鑑定の結果)、その程度はともかくとして患児救命の可能性もまた増加したとみるのが相当である。
したがって、被告の主張はいずれも失当であり採用できない。
五 争点五について
(責任及び損害)
以上で認定説示したところによれば、高木医師は、本件穿刺を実施するに先立ち、原告澄江に対し、その目的及び危険性につき十分な説明を尽くさず、かつ本件において不必要な本件穿刺を実施した過失により患児の出血を来たし、更に術後の監視義務懈怠の過失と相まって患児の仮死ひいては患児死亡の結果を招来したというべきであるから、同医師の右各行為は、患児である宏幸に対する不法行為を構成する。
ゆえに、被告は、国家賠償法一条一項に基づき、被告の病院医師の右過失によって宏幸の蒙った後記損害を賠償する責任がある。
そこで、以下損害について検討する。
1 逸失利益
前記認定したとおり、宏幸は、昭和六三年一一月二三日死亡した者(死亡当時〇歳)であるが、本件事故がなければ一八歳から六七歳まで四九年間稼働できたものと推認され、男子の一八歳の平均年収は一九六万九九〇〇円(賃金センサス(昭和六三年))、生活費控除率は五〇パーセントとするのが相当であるから、中間利息の控除につき新ホフマン方式(係数、16.6208)を適用して計算すると、逸失利益は一六一七万二〇九一円(円未満切り捨て。以下同じ。)となる。
算式 1,969,900×0.5×(29.0224−12.6032)=16,172,091
2 慰謝料
高木医師の過失の内容や程度、宏幸の出生後の症状、さらに出生五日後に死亡したことなどを総合すると、宏幸の慰謝料としては、一四〇〇万円が相当である。
3 葬儀費用
宏幸の年齢などを考慮すると、葬儀費用としては八〇万円が相当である。
4 弁護士費用
原告らが、原告ら訴訟代理人に本訴の提起と遂行を依頼したことは明らかで、本件の内容、認容額などを総合すると、弁護士費用としては二五〇万円が相当である。
5 以上を合計すると、三三四七万二〇九一円となり、原告らは宏幸の両親であるから、その各相続分は各一六七三万六〇四五円となる。
第六 結論
以上によれば、本訴請求は、原告らが、被告に対し、それぞれ一六七三万六〇四五円及び右各金員に対する不法行為の後である平成元年五月二七日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を各適用して主文のとおり判決する。
なお、仮執行宣言は相当でないので、これを付さない。
(裁判長裁判官鎌田義勝 裁判官原田豊 裁判官鈴木陽一郎)